小山田春樹(おやまだはるき)プロフィール

1953年(昭和28年)神奈川県逗子市生まれ、京都市右京区在住

東京教育大学(現在の筑波大学)附属駒場高等学校、立教大学法学部法学科卒業

元日本テレビアナウンサー、報道記者

立憲民主党右京区市政対策委員

趣味は、家庭料理、散歩、鉄道模型、読書

 

 

幼少期

 私は、1953年(昭和28年)神奈川県逗子市で生まれました。鎌倉市の隣にある人口5万人の海辺の町です。

 父親は、理科系のサラリーマン、母親は音楽大学を卒業(声楽が専攻)した主婦という普通の中流家庭で育ちました。父親は旧制高等学校から東京大学の理学部化学科へ進んだ秀才タイプの人で、物静かでリベラルな父親でしたが、論理的な性格で道理に合わないことには屈しない頑固な面がありました。例えば、私が「みんなそう言っているよ」というと、「みんなって全員か?一人も反対の人はいないな?それが証明できるか?」と叱られました。

 母親は、私が小学生時代まで声楽家として舞台に立つこともあり、声楽の先生の指導を受けるために毎週東京まで通っていました。近所の小学生にピアノを教えていて忙しいため、私は小学校から帰って来ると夕食の食材を買いに行き、母が食事を作るときに手伝っていました。母は男性が家事を分担するのは当然だという教育方針だったので、私は料理を作るのが好きになったのかもしれません。

 小学校時代は、とてもおしゃべりな子供で、芸能人のものまねをしたり、ヒット曲を歌うのが好きで、クラスメートを笑わせていました。知的好奇心が旺盛で、国語、算数、理科、社会全てがよく出来る子供でしたが、特に作文が得意でした。しかし、優等生タイプの子供ではないので、低学年の頃は、担任の教師から「授業中おしゃべりが多い」「理屈好きで素直でない」などと嫌われていました。ところが5年生の時に担任の先生から、「小山田君は、みんなの前で発表するのがとても上手い。作文の才能は素晴らしい」と褒められて、自信を持って勉強するようになり、成績は非常に良くなりました。小学校5年生6年生の2年間、毎週日曜日に模擬試験を行う東京の進学教室に通い、中学校の受験勉強に集中しましたが、負けず嫌いの性格のため、「辛い」「しんどい」と思ったことは一度もありませんでした。目標に向かって一途に突き進んでいく姿勢は、この頃から現在まで変わらないのだと思います。

 

 

 

 

 

中高生〜大学生時代

 中学校は、東京教育大学(現在の筑波大学)附属駒場中学校という、中高一貫教育の男子校に進学しました。東大合格率が全国1位という「超受験エリート校」に入ってしまい、「これはえらいことになってしまった」と思いましたが、生徒の自主性を尊重する素晴らしい教師たちに恵まれて、楽しい学校生活を送りました。

 生徒会の新聞作成委員として、学校行事の記事を書いたり、写真撮影をして、新聞づくりに熱中しました。クラブ活動では、陸上部に所属して、ランニングに明け暮れる毎日でした。中学生時代に徹底的な走り込みをやったお陰で足腰が非常に丈夫になり、政治活動に必要な体力が出来たのを感謝しています。

 中学時代は、授業での発表、クラスでの討論など話す機会が多く、スピーチ能力が鍛えられました。私はこの頃から弁論が好きで、中学3年生の時に全校弁論大会に出場して、優勝することが出来ました。演説が好きなのは、私が生来政治家向きなことを示していると思います。

 高校に入学した1969年は、東大闘争など全国で学園闘争が燃え広がった時代です。私は、全共闘の暴力的な運動にも、共産党=民青のセクト主義的な運動にも違和感を持ち、ベ平連の平和運動に共感しながら高校生活を送りました。高校2年の秋以降は、理数系重視のカリキュラムになるため、時々学校をサボって渋谷の喫茶店で本を読んだり、家に早く帰って一眠りして、深夜放送を聴く生活をしていました。文化放送の『セイ、ヤング』という落合恵子さんがパーソナリティを務める番組が好きで、将来アナウンサーになりたいと思うきっかけとなりました。当時のラジオは、視聴者からのお便りに直接語りかける双方向性を持ったメディアであり、放送がとても輝いていた時代でした。

 私は、数学をはじめ、物理、化学などの理数系の学科は苦手なため、私立文系に進学することを決めていました。ところが、父はこれを認めず、「なぜ国立大学を目指さないのだ!」と言って怒り、進路をめぐり父親と対立していました。母は私が文系向きで話す仕事がしたいというのを理解してくれて、私を応援してくれました。ほんとうにありがたいものだと思います。

 

 大学は立教大学に入学しました。正直なところ志望する大学ではなく、入試スケジュール上受験して仕方がなく入った大学なので、全くうれしくありませんでした。何事も真剣に議論する中学高校時代と違って、適当に周りの雰囲気に合わせている学生が多くて、友人を作りたいとは思いませんでした。特に、小学校からエスカレーター式に大学まできた人たちとは全く肌合いが合わず、住んでいる世界が違う人々でした。「君、車何乗ってんの?」「車なんて持ってないよ」「へー、貧乏なんだ」入学早々こんな会話を交わしたのを最後に、私は授業を終えるとさっさと校門を出て神田神保町の書店街に向かう学生生活になりました。当時、付き合っていたのは中央大学法学部の学生で、司法試験を目指している女性でした。中央大学は第2部(夜間)もあり、働きながら大学に通っている人が主流でした。私は最後まで立教大学の校風も池袋の町も好きになれませんでしたが、法学部の授業は極めて真面目に受けました。東京大学を定年退官した一流教授が多く、授業は魅力的でした。私は、憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法など、ほとんど司法試験科目ばかり勉強していました。法律のロジックが面白くて、論理的な思考力を持つ私にとって法律学はとても合っていたのだと思います。司法試験を受けようかと思ったこともありますが、東京大学、中央大学、早稲田大学に比べて問題にならないほど合格者が少ない立教大学なので、やはりアナウンサーになるという高校時代の初志を貫くことにしました。

 大学3年秋になると、放送局への就職試験準備として渋谷区恵比寿にあるアナウンサー養成学校に通いました。週に1回90分のレッスンがあり、民放ラジオ局のアナウナサーが講師を務め、呼吸、発声、発音滑舌、標準語アクセント、簡単なナレーションなどの実技を教えていました。1年間通い4年生の秋に放送局の入社試験を受けました。音声試験、学科試験、カメラテスト、面接、健康診断など、第1次から第6次試験まである厳しい競争の試験でしたが、私は日本テレビ、読売テレビ、NHKの3社に最終面接まで残りました。困ったことに日本テレビとNHKの最終面接日時が完全に同じで、どちらかを選ばなければなりませんでした。内定して選ぶのではなく、最終面接段階で選択を迫られたので悩みました。どちらに入りたいか、どちらにはいれるのか?私は日本テレビを選びました。理由は、NHKアナウンサーは地方への転勤が多くて、一人っ子で将来親の面倒を見なくてはならない私にとって、NHK入社は許されない選択だったのですが、果たしてこの選択が正しかったかどうかは今でも分かりません。

 

日本テレビ時代

 私は、1977年(昭和52年)日本テレビに入社。放送人としての道を歩み始めました。しかしその道は険しく、越えても超えてもまた峠がやってくる『アリラン』の歌詞のような苦難の道でした。500倍を超える競争に勝って入社した私を待っていたのは、「無理が通れば道理が引っ込む」を地で行く地獄の弱肉強食社会でした。入社初日に読売新聞出身のK専務は、「君たち、どんどん借金をして踏み倒せ。借金を踏み倒して堂々と威張っている人間が理想の社員だ」「入社3日で全てが決まる。この俺に気に入られた人間は出世させてやる。気に入らない人間は徹底的に虐めて追い出してやる」こう訓示しました。この人は、入社試験最終面接で「憲法9条をどう評価するか」と私に質問し、「9条は護るべきです」と答えた私に、「おまえは共産党員か左翼思想の持ち主だろう!」と決めつけて絡んだ人です。「私は吉田茂元首相以来続く保守本流を支持しています」と反論しましたが、あまりに露骨な思想調査質問だったために護憲論を理由に不採用には出来なかったらしいです。しかし、入社後もK専務にことごとく虐められ、ニュースの担当、選挙番組の担当などを外され、アナウンサーとしての将来に大きなダメージを被りました。

 アナウンサーは、典型的な体育会的価値観の持ち主がほとんどで、「先輩が鳩は黒いと言ったら鳩は黒いのだ」「メモが回ってきたら、今まで赤いと言っていたものをその瞬間から青いと言え」…。命令に絶対服従の縦社会は反知性主義そのもので、リベラルで知的な家庭に育った私にとって、到底受け入れることの出来ない理不尽極まりない社会でした。「理屈を言う」「自己主張する生意気な奴だ」と、総攻撃されて虐め抜かれ、仕事も干される地獄の日々が続きました。

 そんな私に、突然転機が訪れたのは、入社3年目の1979年(昭和54年)2月、人気バラエティ番組『金曜10時、噂のチャンネル』のレギュラー出演が決まり、一躍有名アナウンサーになってしまったことです。視聴率が25%を超えることもある超人気番組が私を芸能アナウンサーとして売り出してくれたのです。千昌夫さんの司会で、タモリ、所ジョージ、関根勤、木ノ葉のこ(敬称略)と小山田春樹が共演する番組は、歌ありコントあり視聴者参加のゲームありの完全生放送で、最高に面白い番組でした。町を歩くと、「あ、小山田さんだ!」と叫ばれてしまい、自宅近所で買い物も出来ないくらい顔が売れて、テレビ放送の影響力を実感しました。

 しかし幸せは長くは続きませんでした。ようやく道が開けてきたと思ったのもつかの間、私は報道記者となる人事異動が発令されます。「これもいい経験だ。頑張ろう」と前向きに考えて気持ちを切り替えた私は、遊軍記者として事件事故の取材・中継、自治省(当時)担当として選挙制度改革、文部省(当時)担当記者として教育改革などを取材・リポートしました。アナウンス技術と取材力を兼ね備えた私は重宝な存在として忙しく活動しました。そして、政治記者として自民党を担当、夜討ち朝駆けで睡眠時間2〜3時間の超ハードな仕事が続きました。政治家の懐に飛び込んで取材し本音を引き出す政治記者の仕事はやりがいのある仕事のため、蓄積されている疲労にも気づかず無理を重ねた結果、過労で倒れてしまいました。朝起き上がることも出来ないほどの極度の疲労感に、「これはあかん!」と感じて病院に行くと、肝機能が極度に低下して極めて危険な状況でした。半年近く休業して出社すると、「お前に用は無い」との冷たい視線を感じました。ほとんど仕事のない閑職に移動させられ、不要な人間は会社から出て行けと言わんばかりの周囲の対応に、私は退職してフリーランスでアナウンサーの仕事をしていくことを決意しました。「もうこんな会社は辞めなさい。大好きなアナウンサーの仕事をやりなさい。あなたならきっと上手くいきますよ」母の励ましの言葉で、私は辛くて報われなかった生活に終止符を打つことが出来ました。父は、1983年に56歳で他界していますから、私は母を養いながらフリーアナウンサーの道を歩いて行くことになりました。「くじけちゃならない人生があの日ここから始まった」という伊沢八郎さんの歌を歌いたくなるような気持ちでした。

 

フリーアナウンサー時代

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